erikinchanの日記

自分に向き合うことが、もしかしたら私の社会を変えるのかもと思いました。まずは自分に向き合います。

自分の体と、社会への希望と。

Wunderlichさんが見つけた、Wunderlich症候群。 Wunderlich 症候群とは,重複子宮(AFS 分 類III)1)・盲端に終わる患側子宮と子宮頸部留血腫・患側腎無形成を示す稀な子宮奇形であり,その頻度は不明である3)~6). [名護 可容(2012),Wunderlich症候群の1例. Tokushima Red Cross Hospital Medical Journal. VOL1. 7 NO.1 MARCH 2012, p39-44] 子宮が2つあって、腎臓が1つしかなくて、その他諸々の少し変な形をしてる内臓。 頻度は不明。でも聖マリアンナ医科大学の先生からは日本で50例もまだ見つかっていないと2008年当時言われていた。 その頃は調べても論文はあまり出てこなかったけど、今調べたら当時よりも格段にヒット数が上がっていて、その概要や予後が少し分かるようになってきた。 私の体の中で起こっていた、そして起こっていることだ。 先天性疾患の患者の中でも、子宮奇形というのは先天性心疾患患者に比べ、命への影響はあまり考慮されない。 人命維持に必要な心臓の奇形と、生殖機能に必要な子宮の奇形であれば、もちろん前者の方が緊急かつ重大であるし、事実新生児の手術でも数が1番多い。 子宮奇形というのは、初潮が来てから気付くものであるし、生理痛として片付けられれば、思春期のまだ知識もない少女からすれば何事でもない、ただ死ぬほど痛い生理痛でしかないのである。 そのため、先天性心疾患患者に対する思春期・青年期の心理的サポートについての論文は散見されるが、先天性子宮疾患患者に対するその時期のものは特にない。 婦人科系患者に対する術前の心理についてまとめたものはあったが、子宮筋腫等後天的なものも含まれていた。 私はいつも、何故わたしはこの体で生まれてきたのかということに対して疑問を持っている。それに対する答えはないということもわかっている。遺伝子の選択や分裂の段階で何らかのバグがあったのだろう。親のせいではないと先生からもきつく言われた。 その親からは、「子供を産んで初めて完治だね」と言われた。当時は情報も少なく、同じ症例の人間が子供を産んだかどうかもわからない時代に、そう、言われた。 わたしは病気が完治したことを証明するために恋愛をして、結婚をして、出産をするのだろうか。わたしは何のためにこの体で生まれて、生きて、誰かと出会い、そして生を授けるのか。問い続け、前向きな答えの時と、後ろ向きな答えの時と、両方を行き来する生活をもう10年続けている。わたしの精神は本当に安定し難い。 そして、手術が終わったらもう病院に来なくていいよ、となったが、子宮奇形患者にたいするフォローカウンセリングは必要だと思う。病院に来なくていい状態=完治ではないし、生殖機能の異常に対しては20代〜30代女性は敏感であるので、何かしらの対策が必要だが、1番情報にアクセスがしやすい大学病院との繋がりがあの18歳の段階で切れてしまった後、私はどのように情報に辿り着けばいいか分からなかった。 そんな疑問や戸惑いを持ちながら、こんな論文を見つけた。 f:id:erikinchan:20190424212342p:plain 帝王切開ではあるが、出産が可能であったことが分かった。重複子宮のまま生きていると、患部側の子宮(膣に繋がっていなかった方、レーザー治療やパイプを通して穴を開け膣につなげる。わたしはパイプを通したが、異物反応により高熱が出て1年で患部子宮摘出となった。このせいで修学旅行から帰らされた)で妊娠する例もあるらしいが、この症例では正常な側の子宮で無事出産ができ、新生児の状態も健常であった。 同じ病気の人が子供を産んだという事実に、ほっとした自分を見つけた。 女としての価値が、まだあるのかもしれない。 そう瞬時に考えた自分に、違和感も感じた。 子供が産めなかったら、女としての価値はないのだろうか。それなら、不妊で悩んでる女の人たちを始め、子宮奇形というハンデを背負って生まれてきた少女達も皆、女としての価値がないのだろうか。人間として生きることがまず前提にあるべきなのに、どうして女としての価値がないかもと考えたら悲しくなるのだろう。 母は昔からこう話していた。 「子供を産んで初めて女は一人前になる」 「自分が生きた証を子供という形で、遺伝子として残せるのは素晴らしいこと」 そうだよね、分かるよ。 でもね、私それ残さないかもしれない。 残せるかもしれない。 分からない。 私は、生きた証を残せない人間なのだろうか。こんな風に悩んで考えたことも、無駄なんだろうか。 そんなことはないだろう。 冷静な人間主義的な前向きな考え方が出来ればこんな無駄なんてことは考えないで済むはずなのだ。でも、どうしてもそうなってしまうのは、自分としかこういう対話が出来ずどんどん沼みたいにはまっていってしまうからなのだ。 だからやっぱり、フォローカウンセリングは必要だと思うし、そういう制度にアクセスしやすい環境が必要だと思う。 女の人が子供を産もうが産まいが関係なく、自分の生きていく価値を心から納得して生きていくために、支援が必要だと思う。子供を産まない選択をした夫婦にだって残せるものがあるはずだ。1人で生きていくことを決めた個人にだって、生きた証は残せるはずだ。 そういうことを私は忘れずに訴えていきたいと思う。